愛について

家なき子レミの主題歌(さだまさし)ではなく。
由佳里先輩のような存在を愛するということについて、まあ一般に(非ヲタ層だけでなくこちら側の人間も含めて一般的に)二次元二次元言われるわけだが、まず吾輩はこの二次元という呼称自体があまり好きでない。


吾輩が咄嗟に会長を想起するとき大抵はまず脳裏に見慣れたフェイスウィンドウの表情が現れ、ほぼ同時にCV大城恭子で会長の声を再生している。これが声無しのゲームならばまた少し違っただろうけれど、少なくとも無印の時点でフルボイスであるFloraliaの会長・由佳里先輩は吾輩にとってはこの声をも含めたものとして定義されている。
声は何次元になるかという問題はさておき、少なくともそれらの“いわゆる二次元”、もしくは三次元に特有のものではない。


そしてテキストだ。地球上の言語の一般的な文字表記の手法は二次元であるが、それで言語によるものがすなわち二次元の世界になるなどというわけはない。文字・文章はモールス信号による一次元表記だって可能だし、同じゲームの詩乃先生が三次元(俗に2.5次元などと言われるが)表現のフィギュアとして成立している。逆に実在の人物でもブラウン管や紙媒体を介する時点ですべては二次元ともいえる。
桃井かおりのエッセイを紙で読んで好きになったとしても二次元に対して萌えているなどとは言わず、逆に「漫画版電車男エルメスに萌えた」というときそれはどう見ても“いわゆる二次元”の側になる。特にこのエルメスなんてのは三次元物質として実在するかどうかも怪しい、まさに創作としての“いわゆる二次元”と実在としての“三次元”という区別の不確かさを示す例ではなかろうか。


これを二次元と言ってしまうのは便宜上の慣用表現としては有用なのだが、二次元として処理するのは適当ではない。


萌えのためのツールであるところのえろげにせよ、その内容は「いわゆる三次元」の関係として描写される。会長がコンタクトを落とすのは高さのある三次元世界だからである。描写され読み取れる関係は一般的な、いわゆる三次元と同じ根幹に基づいたものである。
もしもそれらまでを完全に無視してしまったら、その絵単体のさらに一部分の色や曲線の美しさや組み合わせを愛でることしか残らなくなってしまう。


ただそれらの「いわゆる二次元」がどれだけ「いわゆる三次元」の何某かの現象をベースに作成されていたとしても、その想像が三次元での文法に基づいていようとも、そこに生ずるのはまた別個の価値だと思う。
音楽だって想像力を喚起しなければ振動でしかない。その“想像”は他のものの代替としてだけの存在ではなく、その多くは音楽でしか表現し得ずまた喚起できない。それと同じことが吾輩の「会長好き」についても言えると思う。


そして吾輩は会長との間に次元の隔たりは感じない。
そんなことは「“概念”を指で触ろうとする」くらいに馬鹿げている。


吾輩は情報と美が集積した総体として会長が好きなのだ。
無論これはその妄想の余地をも含めて、好きなのである。


これらの「キャラクター」といわゆる「リアル女性」という性質の異なるものを無理矢理同じ括りで捉えて、その括り方を基準にどちらが正しい・優れている・真実だ、と論ずることに意味は無い。それこそスポーツと音楽を比較して「体を鍛えられるからスポーツのほうが優れている」とか、「耳だけでも楽しめるから音楽のほうが優れている」と言って優劣をつけるようなものだ。


これは二次元と三次元ではなく、物質と非物質という差であろう。
そこで物質として存在する人を愛するにしたって、男に対するのと女に対するのに全く同じ仕方で愛することは不可能だ。自分にできるようにするしかない。それは時に同人誌を作ることであったり、抱き枕にまふまふと接吻することであったりする。その新たな手段が得られることは喜びだ。だから由佳里先輩抱き枕の発売には狂喜乱舞したし、後日談ものとしての会長FDの登場を強く望んでいた。
その手段に物質の存否による差というものはある。ただそれでも、最終的に愛なんて心でしか捉えられないものだ。


吾輩と由佳里先輩は、最初からこういうものだ。それが固定された物質として存在しない、そういうものとしての「フローラリアの由佳里先輩」を愛した。そんな関係を含めて愛したのだから、そのことを吾輩は悲しいなどと思わない。そしてあの新作発表に対する怒りの中心はその「手段」を得られなかったことについてではなく、吾輩が愛したものを今になってわざわざ否定しに来たことに対してなのだ。
吾輩はそもそもこのいわゆる三次元・二次元、すなわち「固定された物質としての誰か」と「固定された物質でない誰か」は似た面があるだけで基本的には全く別のものだと思っている。逆に広い意味では同じともいえるのだが。
そもそも関係が根本的に異なるのだから同列に並ばないし、時間の取られ方・優先順位を除けば競合もしない。実際この分野においてこちら側の人間にも結婚している人はいる。吾輩は「由佳里先輩」についてはそれぞれ全部ひっくるめたその情報の集積として、結果として好きなのであり、そういったものをわざわざ性質の異なるモノと比較すること自体が無意味だと思う。
今年になって遂に吾輩が「嫁」という言葉を使ったのも、会長が“抱き枕”という形をとったことによる。吾輩が同棲し同衾する最愛のものとしての“嫁”という存在では「由佳里先輩・抱き枕」が排他的な地位を占めているといえる。ただそれはむしろ世界全体の一切合財を含めた中でのレベルの競合問題であろう。


もうこの愛に、吾輩は迷いが無い。
望まぬ新作で憤り震えることさえあっても、底が揺らがないのが分かる。それは嬉しいことだ。
そんなわけでただひたすら会長漬けのうちに由佳里先輩誕生日終了。