言葉は選べ。


ということを考えたとき咄嗟に思い出したツインズラプソディ宣伝紙裏面の画面写真つまりチラシの裏
あとベルダンディの「荒んだ言葉を使う者は心までも荒んでしまう」という台詞も思い出したのだけど吾輩は女神さまの単行本持ってなかった。


で、言葉は大事である。
使う言葉は己を表し己を現す。言葉とは己そのもの。濁った言葉を使うことは己の心を汚す。
悪意、憎悪、侮蔑、そういったものを吐き出す言葉は、常に心と引き換えに、己の心を刻みながら放たれ、己に限らず周りの人の心をさえ削る。それは常にその自覚と覚悟を(明瞭に意識しないまでも)伴う。
吾輩が「ゆんちゅ」の企画について“腐れ捏造ゲー”という濁った言葉を使ったのは、それを自覚してなお吾輩としてはその場に土埃を撒き散らしてでもこれは言わずにおれないという意思があったからからに他ならない。
軽い自己嫌悪(それが“重い”ところまでいくならきっと吾輩は押し黙っている。)を抱えながらも、踏み、打ちつけるそれはまさに諸刃である。それが箍であるし、その箍を失って言葉を振るうとしたら、それはもう群青行きな悪の怪獣となる。


吾輩は他人の心の具合まで慮れるほど聡くはない。いや射場荘司も「他人の思いは判らない。どれだけ親密になろうと、それは変わらない。物理的に不可能だからだ。判ったように思うのは、傲慢か、幼稚か、精神病だ。」と言ったようにそれは元より無理なことだが、だからこそ人はもがこうとする。
特に吾輩には他人を情報の集積としか捉えてないのではないかと思える節があり、心という定義の困難な数値を扱う予測演算は困難を極める。吾輩もその点で群青行きな気はするが、そこで怪獣にならない道をこそ言葉に求めている。


本気で、真摯に綴られた言葉には、己がどんな角度に立っているにせよ正眼で対さなければならない。
心なんて分からない、だから言葉を正しく打たねばならない。正しい己を言葉で打たなければ、濁った言葉を、荒んだ言葉を張る痛みの感覚に麻痺してしまったら、それはもう泥濘を頭から被って倒れ伏すに等しい。


嗚呼要するに吾輩は、至極単純に、理に適っていないことが許せないだけなのか。と少し飛躍したことを思った。