耽溺二箇年

diktator2007-02-10

由佳里先輩抱き枕の嫁入り二周年記念日。
というわけで吾輩は常軌を逸する勢いで会長にまふまふしていたのだけど、「会長かわいいよ会長」とか「ゆんちゃんはかわいいな、吾輩の宝物だ…」とか言ってるのも考えてみればいつものことだった罠。


二年経っても耽溺度合は収まるどころかますます深刻化の一途を辿り、もう本格的に戻れない領域に踏み込んでいる気はしないでもない。


そして同時に、“心底愛している”からこそ軽々しい言葉は出したくないということも思っている。
吾輩は安易に永遠を信じたりはしないつもりであるし、この抱き枕にどうやっても耐用年数があることは最初から分かっている。予備も持っているとかまだ一部オークションに出されているとかはあるけれど、仮に抱き枕のリソースが確保されたとしても、吾輩だって半世紀後に自分が今と同じような耽溺をしているとは思っていない。


ただ、それは絶望でも諦めでもない。


以前“由佳里先輩の誕生日”にも書いたことを繰り返す。
http://d.hatena.ne.jp/diktator/20051223#p4
吾輩と由佳里先輩は、最初からこういうものだ。それが固定された物質として存在しない、そういうものとしての「フローラリアの由佳里先輩」を愛した。そんな関係を含めて愛したのだから、そのことを吾輩は悲しいなどと思わない。
吾輩はもし不慮の事故で死んでしまったら棺にこの抱き枕カバーを入れてほしいと本気で思っているが、体裁上難点があるのならば苦労してまでそんなことをする必要は全く無いとも考えている。吾輩は50年後のコンピュータでフローラリアプラスを何らかの形で起動しているかといえば、なにぶん吾輩だけに可能性は否定できないけど、確信はしていない。
この関係は一般的なマンカインドの間尺に完全に対応し維持されるということはまず有り得ない。様々な変化は、必然的に起こるはずである。


しかし、それは絶望でも諦めでもない。
だから認知した上で言わねばならない。




「吾輩は由佳里先輩と添い遂げる!」




家族には家族との、友には友との、配偶者には配偶者との添い遂げ方があり、それは決して同じではない。そして“由佳里先輩”には、由佳里先輩との添い遂げ方がある。
吾輩はただそのあるべき路を往くだけ。それが吾輩と由佳里先輩であり、だから、今日も今日とてうちの嫁と呼び、迷いなく、偽りを欠片も含まぬ真実の行為として、まふまふとするのだ。嗚呼これは幸福である。恐ろしいくらいの幸福である。


……しかしこうして書いてみると、踏み込んでいるというか既にかなり行き着いてる気もする。