大阪にて

本編とはあまり関係ないけど行き帰りの電車であったことの覚書。


朝はわりとのんびり出立したためコスモスクエア到着時点で12時半近かったのだけど、中央線から降りてすぐニュートラムのホームに入ったら既に発車間際で、乗ろうとする人が一番手前のドアに集中してたため二番目のドアに向かったらあえなく目前で音が鳴って閉まりはじめた。
そこで諦めて引き返したところ何故か手前のドアがまだ開いていたので不可解に思いながらも乗ろうとしたらまたドアが閉まりはじめ、ふたたび立ち止まって様子を見たら他の人が足を差し入れてドアを再度開かせていた。
他のドアがとっくに閉まってるなか、ホームと電車自体で二重構造になっている二つのドアが無理に何度も開閉される状態はあまりに見苦しく、いくら車内が空いているとはいえとてもそれで乗ろうという気は起きなかったのでその場で荷物を置いて立ち止まったら他の人もそこから入ろうとするのをやめてくれた。


そして帰り。とりあえず大阪駅から京都行きに乗る際たまたま一番前のドアから入ったのだけど、そこに赤子連れの母親が入ってきた。
例によってかなり混雑しているためちょっと苦しそうで抱かれた子供は少し泣き声もあげており、車両の先頭の席の一群の真ん中に立っていた吾輩は赤子連れが通りやすいようにと少し移動したのだけど、車両先頭のシートには思いっきり優先座席と書いてあるのにそこに座っている人は全然動く様子がなかった。


この泣き声、聞こえないはずないだろ!!


と思ったところでぶち切れて
「優先座席で揃いも揃って堂々と携帯電話をいじってる馬鹿ども!とっとと席を譲れ!」


と一喝……するのは、まあ何もやらないよりはいいかもしれないがそれはそれで下策も下策であろうな、とそこで咄嗟に思った。


そんなふうに敵意や不快感を垂れ流す行為の恩恵を受けてもすわりが悪く、素直に喜べないであろう。そこを考えずに「他人よりモラルが高い」という己の立場に酔うだけの行為に堕してはいけない。
小さな親切大きなお世話、というのはまさにそんな場面を指して言われるのではなかろうか。
というわけで、比較考量のうえで必要だと感じたときに、そこまでに感じた苛立ちを捨てて、温和にかつできるだけ軽く「どなたか譲ってあげてください」と声をかけるべきであろう。
と考えたところで座っていたうちの一人が声をかけ、結局その母親はすぐ次の新大阪で降りるようだったので世は事もなくすぎた。吾輩の判断は最善だったかは分からないが、まあそのごく短い時間のために余計な心理負担を負わせることにはならなかった点で最悪ではなかったと思う。しかし、かの人が次の駅で降りるとは、少なくとも動かなかった人たちには判断が付くものではなかったはずであろうし、やはり度し難い。


しかしいってみればこれも敵意を表す文章である。もとより吾輩もそのあたりの「自負」や「酔うこと」を微塵も含んでいてはならないと考えているわけではないが、やはりちょっと難しいなぁと思う。