プロはその縛りと戦ってるんだよ!

とは、ちょうどefの6話で主人公が言ってた台詞なのだけど。
「いろいろな絵師とその作家性」という記事が巡回先の某所で触れられていたのでちょっと思うところを書いてみる。

いろいろな絵師とその作家性

http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20071106/1194361108

いろいろな絵師とその作家性 その2

http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20071110/1194699124


新装版うる星やつらの各巻で色々な著名人(有名漫画家)が「ラムちゃん」を描いているという企画を見て、その多様性に比べエロゲンガーたちの萌え絵が没個性であることを嘆いているらしい。


それでまあとりあえず吾輩の結論から言えば。
結局需要と供給の結果でしかないものについてとやかく言う意味が分からない。


単に「この系統の萌え絵」の需要が肥大化してるから敢えてそちらの方に顔を向けたら当然そういう絵が目立つというだけのことではなかろうか。
ただ「増えたなぁ。」というだけなら吾輩も書店のラノベコーナーにおいて実感*1しているし殊更に否定するつもりはないが、そこに繋がって述べられている部分を読んでいるとこの記事には賛同できない主張が多い。

それに引き換え,最近のライトノベルは……や アニメーターとライトノベルイラストレーターの主力は二世代違う:ARTIFACT ―人工事実―なんかでも議論されていたことがあったし,萌えの記号化とかデーターベース化なんかでも議論されることがあるけれど,最近(この”最近”という言葉を無理矢理使うが)の絵師の絵は均一化されすぎていて,誰が誰だかわからないし,誰が描いても同じように見えるし,誰が描いていてもあまり気にならないし,誰の描いたキャラであっても必要十分で似通った可愛さ・綺麗さ・魅力を持ち合わせているように思えてならない.

つまり,萌絵を描く,エロゲ原画絵師やライトノベルの絵師や同人作家に,これと同じような企画(ラムちゃんを描いてもらう)をやらせたらどうなるだろうか?という話である.
…おそらくみんな似たような顔をした似たような魅力をもった,均一化されて,記号化されたラムちゃんが勢ぞろいすることだろう.

まず一点。萌え絵の業界において既にいくつも「これと同じような企画」が存在することを認識していないのは、この問題を語るにはあまりにも情報不足であると言わざるをえない。いや決して吾輩は経験が少ないから何も語ってはいけないなどとは思わないが、少なくとも軽々に決めつけていいような立場ではない。
エロゲ関係のムックでは登場人物の絵を色々なゲスト絵師に描いてもらったものが載せられることも珍しくないし、エロゲ雑誌なんかでもキャラではないが毎月たくさんの絵師にひとつのお題で絵を描いてもらう企画があったりする。
そして吾輩がTCGLyceeをあまり好まない最大の理由は、好きなキャラなのにオリジナル以外の(多くは同時に収録されている他作の)絵師が描いていて(その絵師自体は両方好きな場合でも)イメージが違いすぎるため趣味に合わないカードが多いということで、カードショップでもオリジナル絵師版のカードにはおおむね高値が付いている。


また有名どころでいえば萌え絵商売の代表格のひとつであるメロンブックスの毎月のテレカもまさにそんな企画ではなかろうか。
http://www.melonbooks.com/recommend/telca_trade.html
ここでみやま零のブラックレモンと片瀬優のブラックレモンは似たようなポーズをとっているけどかなり別物で、吾輩としてはたとえば件のラムちゃん企画における「現在の本人」と「あだち充」のカットに見られる差異と同等以上には異なるイメージを持っているように思える。
こういったサンプルが既に幾つも現存する現在においてそれらを検討することもなく「どうなるだろうか?」と自分の妄想を膨らませることは意義が薄い。そしてそれらを見てきた限りで言うなら、吾輩としては一様に同じだとはとても思えなかった。むしろ元のキャラよりもそれぞれの絵師が別ゲームで描いてるキャラに似ている……要するに絵師個人のハンコ具合の方が気になるくらいである。


ただそれでもまあ吾輩とて「萌え絵」にはやっぱり一定の似通った傾向が無いとは思わないでもなく、たしかにここで挙げられている「著名人たちのラムちゃん」ほどのバラエティはない…のであるが、しかしこの「無差別級」のラムちゃんと「萌え絵限定戦」の世界を比較することがそもそも無意味なのではなかろうか。


だいたいこれらの絵はそれぞれ「ラムちゃん」を捉えている範囲が全然違う。言い方は悪いがそれぞれの絵師がかなり好き勝手にラムちゃんから自分の取りたい部分だけを切り取った代物である。
人選からしてもそういう意図のもとで行われたであろう企画だからそれは悪いことではないが、この「ラムちゃん」たちの中には、あの「うる星やつら」という漫画の内容をそのままトレースしても破綻しない……とそこまでは言わなくとも、あのジャンル・あの方向性でそのまま成立しうるラムちゃんでさえ何人もいない。
特に本編の重要ファクターである「諸星あたるに一途な思いを寄せるヒロイン」という部分よりも「鬼娘」的な性質を重視した絵も多い。野中英二の絵なんかは特に顕著であろう。この中からよりによってのなーを持ち出すのは反則臭いが、当該記事自体そのあたりを明確に指摘して区別することなく個性を語っている時点でおかしい。


まあメロンちゃんの絵だって各々の絵師に裁量として任されている部分はあるのだけど、彼らは元々仕事として期待されているものが違う。オファーを受けたのが仮に画太郎先生だとしたら、元の存在イメージに近しい娘々のような絵柄でなく画太郎先生の個性が強いババア風ラムちゃんを描くことができる。それは「画太郎先生へのオファー」であれば期待される内容の範囲である。しかし萌え絵を主な商売にしている絵師が萌え商売のオファーを受けたところに、奇を衒って可愛げのない(とは言い切りたくないが)ババアメロンちゃんを描くことは望まれていない。*2
逆に言えば週刊少年ジャンプみつみ美里べっかんこうが萌え漫画を描くことも望まれない。いや萌え漫画っぽいものはジャンプにもあるけど主流ではないし主流になったら週刊少年ジャンプである意味がなくなる。一方エース桃組にだって平野耕太が載ったりしていたのであるが、平野耕太っぽいもの*3を多く読みたいのであればエース桃組である必要がない。で、萌え絵をもっと見たい人が買う萌え絵商品を指して偏った萌え絵だらけだというのは「ドラゴンボール鳥山明の絵ばかりでつまらない。」と言ってるのと変わらない。


そしてそもそもの話として、当該記事のいう「同一」「均一」がどういうレベルのことを言ってるのかがさっぱり読み取れない。どこは違って、どこが同じなのか、というところがはっきりしない。
現状でどの部分までは差異があるといえるのか、逆にどのくらい違ったら差異があると認められるのかが定義されないことには同一性は論じようがない。
たとえば髪の処理にしてもみつみ美里みたいなのもあれば都築真紀みたいなのもあり、みやま零のようなのもある。
それらには個性を感じるのかそれとも数パタンに分類できて没個性だと考えるのか、そして翻って、件のラムちゃんの絵を描いた人たちについて同様に捉えようとしたときには、各々のジャンルによるパタンの類型が見られないと果たしていえるのか。
それこそ漫画/アニメの絵柄自体を「目が大きくて鼻が目立たない似たり寄ったりなもの」と捉えている人だっているわけで、そんな人を相手にしたら件のラムちゃんだってほとんどが似たもの扱いされてしまう。どこまでを個性だと認めているのか、どこが無個性で同じだと考えるのか、という点がはっきりしていないと、判断基準が全く異なるところで話をしても全く伝わりようがないと思う。


そして萌え絵の個性の幅が狭いというのはそもそも萌え絵の定義の幅の問題があるんじゃないかと思う。ともかく一定の要件を備えたものが一般に「萌え絵」と認知されるわけで、その要件を指して「狭い」と言われてもそれは当たり前のトートロジーでしかない。
漫画で言えば少女漫画家の絵は一般の成人男性にはどれもこれも似たり寄ったりに見えると思われる。一方で今回のようにいろんなジャンルの漫画家から手広く集めれば個性的になるし、「いろんなゲームの」絵を集めたらやはりバラバラになる……というか描いてる人がだいぶん漫画家とも被るであろう。
ただそれだけのことではなかろうか。




よく分からない主張が繰り広げられたあのエントリで述べたかったのは結局次のようなことらしい。

均一化も萌の記号化もデーターベース化も大変結構なことであるし,そうした形式を積み重ねることで導き出される美もあるだろうし,それに生涯を捧げることを否定したりはしないけれど,もっと個性のある絵を評価する努力もした方がいい気がする.

あぁ,断っておくと,私は別にエロゲ原画絵師個人を卑下したいわけではなく,同じような絵しか受け入れない市場(オタク)に問題があるのではないか?という話をしたい.先に提案した企画は,そういった均一化され,ある程度評価が楽な(均一化されていればされているほど評価される)絵柄しか評価できない,受け入れられない,没個性的なオタクたちに,「もっと才能とか個性を正しく評価できる集団になろうよ」と訴えたかった.

蓼食う虫も好き好きで、人の好みをとやかく言っても始まらない。個性の評価ってそれこそ「均一化された正しい統一基準」があるわけじゃないので当人にとっての快・不快でしかないわけで、評価した結果いらないと判断されたものを買えというのは押し売りでしかない。
ゴッホも生前は絵が売れなかったといわれているが、後年それを欲しがる人が現れたにしても、当時の多くの人たちが本当に必要性を感じなかったのは事実であろう。そして当時ゴッホよりも売れていたけれど現在ゴッホほど名前が知られていない絵描きたちにしても、彼ら一人一人と同じ感性と発想で絵が描ける人は他にいないはずで、当時の人がそれらを評価したこともまた尊重されるべきであろう。


それから「均一化されていればされているほど評価される」ってのは正しくないと思う。(オタクの)一般的な好み、というある程度均一化された共通の枠が土台にある中で、さらにそこに盛り込まれた個人の意匠が受けた場合に評価されると吾輩は考えている。
だから吾輩は、岸上大策とか、まさはるとか、みやま零とか、(昔の)都築真紀とかの絵の個性が好きなのである。
吾輩はエロゲ系萌え絵師の原画集紹介文に「美麗」というフレーズがつけられると激しく違和感を憶えることの多い*4人間だが、それでもその萌え絵の枠の中に絵師それぞれの個性的な意匠を認識しているしそれを尊いと思う。
現に絵師についてしばしば「個性が薄れて没個性の萌え絵になってしまった」という言葉が否定的なニュアンスで使われるように、やっぱり評価対象は個性なのである。萌え絵の均一化された値に「より近いから」評価されるのではなく、個性と既に確立された有意義な萌え絵の方法論の両方を見事に備え効果を発揮させているからより評価される、というのが吾輩の考えである。


で。
「個性のある絵を評価する努力もした方がいい」というが、評価してないというデータ、推論はどこから出てきたのか?
ラノベ読者はエロゲとラノベ以外のメディアには触れないという前提で書かれているように見えるのだけど、たとえばここでラムちゃん描いてる様々な漫画家の作品をひとつも読んだことの無いオタクなんてほとんどいないと思う。どう見ても萌え絵には入らない福本伸行とか荒木先生の漫画はエロゲオタ界隈でも大人気だし、その時点でこの記事の主張の前提が崩壊している。
それが萌え絵としては使われない、というのは当たり前の話で、それを否定するのは劇画を萌え絵でやれと言ってるようなものである。*5
もっと言うならエロゲ板に行って「俺は日本の行く末を憂いているのに、この板の書き込みはエロゲーのことばかりだ。エロゲーしか頭にない無知蒙昧なお前らのために俺が今の政治についてとくとくと教示してやろう!」と息巻いて政治講釈スレッド立てるようなものなんではないか。


そもそも「集団」のあり方を勝手に決めつけられても困るのだけど、具体的にどういう状態になったら「才能とか個性を正しく評価できる集団」であると認定できるのだろう。ロボットアニメの主人公からエロゲのヒロインに至るまで画太郎先生のババア絵風キャラや野中英二の前田ママ風キャラをそれぞれ一人は出すようにしないと気が済まないのか?
ラノベやエロゲとは別に、個性のある絵や作品は普通に売られててオタ・非オタを問わず買われてるんだから何も問題はないと思う。

  * 皆、生活がかかってるのです。
”皆”そうでしょう.でも,ちょっとズレている作家も養えないような…そんな了見の狭いことでいいのだろうか?

理解されるされないに関わらず個性を持ってる人はたくさんいるのだし、一般消費者にそれをカバーするように要求するのは無理がある。自分が養ってでも描かせる価値があるべきだと思う人がパトロンになればいいだけのことで、パトロンを購買読者/ユーザーに置き換えると今の状態と変わらない。「他人のための仕事をして対価を貰わないと生きていけない世の中」を拒絶してもしょうがないし、商業主義を全否定したら現在の漫画さえ肯定できなくなる。
そしてぶっちゃけ萌え絵の要件から外れたモノを萌え絵として売ることに拘る意味が分からない。良い絵なら普通にいい絵として売ればいいし買えばいい。ついでに言えばラノベも萌え絵が増えてきたとはいえ、萌え絵とはいえない絵の作品も普通に売られ買われている。
売れていないとしたら単にその絵が他に比べて(世間の主観的な評価の総体としての)魅力・価値を持っていないということでしかない。世界の偏りについて個人(の集団であるオタク)に文句を言われても困る。

作画崩壊騒動で噴出した感じがするけれど,均一化されて,作家性が低く抑えられていて,コントロールが効いていて,品質が一定であるものを好む…ってのはあまり好ましくない状況であるように思う.

以前WOWOWでやってた「SHUFFLE!」のアニメでも回によってキャラの絵柄が結構違っていたりしたのだけど、あれはあれで吾輩としては好きだったし面白かった。しかし一方で不満を漏らす人はいたし、吾輩はそれらの不満が不当なものであるとも思わない。
実際に何に対して誰がどこで「作画崩壊だ!」と叫んだか知らないが、それまで○○というキャラはこういうものだと示されてそれを気に入っていたところで突然自分の好みのものと違う存在になったら不満が出ても別段不思議なことではないと思う。「こみっくパーティー」とは別にいたる原画のエロゲ「Kanon」が発売されても別におかしいとは思わないが、「こみっくパーティー」をプレイ中に瑞希が突然いたるの絵柄に変わったら作画崩壊だと感じるだろう。中にはいたる絵が好きで「いたる絵瑞希もいいなぁ」と思う人も、面白い趣向だと考える人もいるだろうが、そうでない人だっている。それは単に望むものの違いである。そこに数による力関係は生じるが「どちらが正しい」なんてものはない。
そこで「なんでもいいから多様性があればいい。それこそが正しいんだから、お前たちも俺と同じものを望み愛せよ!!」って方がどうかしている。

n_euler666 『そりゃそうですよね.いや,ラノベ読みは諸星なんて知らないだろう…という偏見が私にあるだけです.
それでも大半は知らないし,知らずに終わってしまうと思うし,知る機会すら与えられないと思ってますけど…(何せラノベというジャンルは多様化しているようで狭いですから,諸星がライトノベルの表紙を描けないジャンルなわけですから)』

そもそも定義・幅がはっきりしない「ラノベ」をジャンルとして扱って広い狭いで語るところに無理がある。
のいぢが描いてるハルヒラノベで、スニーカーはラノベレーベルで、そこでガンダムの小説もラノベで、ソノラマもラノベで、クラッシャージョウ吸血鬼ハンターDラノベで、美木本晴彦も安彦良和も天野義孝もラノベ絵師である。権威主義に堕したくはないけど、とりあえずNYやパリで個展開けるラノベ絵師がいるくらいだから十分じゃないかとも言えてしまう。
諸星大二郎ラノベの表紙を描けないんじゃなくて、描かないというか描いても意味がないというか、諸星大二郎という大御所が描いたら「ラノベか否か」という元々意味の薄い問いが余計に価値を持たなくなるだけだと思う。




あと最後に一点。

〜こういった擁護の仕方は良く見かける.例えば,ライトノベルがパクリパクラレの関係や,文章がむちゃくちゃだとか,台詞がやたらと多いとか言われたときの言い分がそれだ.(三銃士とか昔の娯楽小説も台詞が延々と続いたりしてるし,キャラを立てることにしか意識が向いていない作品が多いし,紫式部もパクリパクラレの…うんぬんかんぬん)


…だから現代でやってもいいし,そういった作品が今評価されることが正しい…のだろうか?


極論してしまえば,二本足で歩いたり,道具を使うことを今やって評価してくれ,と言っているようなものではないのか.何万年も昔,それはすごいことだったかも知れないし,その凄さは現代であっても評価されるだろうけれど,今やったからといって評価できることなのだろうか?

このくだりは本気で不可解。
べつにそこを積極的に評価しろと言ってるわけではなくて、それらの欠点を理由に全否定するなと言っているにすぎないと思う。そういう欠点があったとしても、愉しめる・評価できる部分があると言っている。
それを理由にあれらの古典作品が価値を消失させるのでなければ、それを理由にライトノベルが否定されることもない。
ここを極論するならば「二本足で歩けることを評価すべきだ」と主張しているのではなく、「宙に浮かず昔の人と同じように二本足で歩いてるからこいつは価値の無い人間だ。」という主張に反発しているにすぎない。
だいたい古典作品は「文章がむちゃくちゃ」だから凄い、「台詞がやたら多い」から凄い、「キャラを立てることにしか意識が向いていない」から凄い、と言われてるわけではないと思うのだけど、何故こんなコメントに繋げられるのか全く分からない。
このあたりを読むに至っては、もうこれ実はただの釣り記事なんではないかとさえ思えてきた。




それで結局のところ、萌え絵は絵柄が偏ってるし一般人からはどれも同じに見えるというのはまあ分かる。
しかしたとえば江戸時代の絵だって素人目には結構似たり寄ったりで、また春画なんかを今見ると「本当にこんなもので喜ばれたのか?」とか感じるものの当時の流行・町民の認識している世界こそがそんな絵柄であり、逆にそこで現代の萌え絵を描いたらただの変人だろうし、今の萌え絵にしても後世に残ったら「平成の人はこんな目の巨大な珍奇な絵*6で喜んでいたのか?」と思われるのではないかと吾輩は常々考えている。
江戸時代あのような絵柄の展開に大衆的価値が見出されていたように、現代のオタク業界に関わる創作側も消費者も、萌え絵の枠の中にひとつの戦場を見出して戦っている。もちろん覚悟も立場もそれぞれ異なるが、吾輩含めたフリークは皆そこに様々な個性と価値を認めている。


えーと、つまり、要するに。
壷(萌え絵)マニアがそれぞれの壷の個性を愛して「いいものだ……!」と喜んでいるわけで、そこへ壷に興味のない人間が「似たり寄ったりのくだらない壷ばかり集めてないで彫刻を買いなさい.」とか壷の違いも分からないくせにしゃしゃり出てきて口を出すな。
皿や彫像で楽しめる模様や焼き目もあるが、壷が好きな俺は壷でしか見られない壷の美しさのバリエーションをもっと愉しみたいんだよ、と。


まあ関係ないことまで含めて長々と書いたけど、吾輩の考えはこんなところ。
絵師の名前は個人としてでなく絵師として言及してるためおおむね敬称略。ただ「画太郎先生」はこの呼び名の通りが良すぎるためついこう書いてしまうw


*1:もっとも人間の感覚なんてあまりあてにならないものだが

*2:ならメロンちゃんを例に出すなって言われるかもしれないが、問題の原因はそもそも「萌え絵師を集める」という前提なのだからこれらはサンプルとしては適切だと思う。

*3:考えてみれば元々は成人漫画を描いてた人だから「最近の」とつけるべきやも。

*4:本当に「美麗」というフレーズの似合う絵師もいるにはいるが。

*5:咄嗟に「どくそせん」のことを考えたがあれはキャラ同じでも別のものだし、吾輩は「黒騎士物語」は持ってるけど「どくそせん」は買ってない。

*6:もひとつ言えば目を極端にクローズアップした、ある種の広義の抽象画じゃないかと吾輩は思っている。