萌える男から見た萌える男

萌える男 (ちくま新書)

萌える男 (ちくま新書)

わりと魔窟な自室で本田透の「萌える男」を久々に発掘した。だいぶん今更なのだけどこの本には色々と思うところがあるのでこの機会に述べてみる。
吾輩がこれを読んだときの第一印象としては、読売の「キャラ読み!」や本人のHPの「電波男」紹介ページから受けたイメージに比べるとずいぶんマイルドに感じた。


→参考:キャラ読み!の感想。
http://d.hatena.ne.jp/diktator/20060118
http://d.hatena.ne.jp/diktator/20060301

全体について

しかし今この文章書こうと思って読み返していて改めて感じたけど、やはりこの本は読んでて非常に疲れる。
基本的に本田透が思っていることをただひたすらまくし立てている、といった印象が強い。考えた結論を一方的に語るばかりでそう考えるに至った論拠もほとんど示せていないし、本田透の主観・解釈や体験談が起点としての情報ソースになっていたり「言えなくもない」「かもしれない」で話が終わっていたりする部分も多い。
記述の全てに論拠を添えることは難しいとはいえ、読みながら入ってくる情報の検討や検証ができないため一々思考を中断させられ、解決しないまま「はぁ、そうなのかなぁ……。」と理解も判断も保留して読み進めるしかないのはわりと苦痛である。

恋愛資本主義って何?

そして主張を理解しようと考えながら読むと、論の中核になるはずの言葉の意味が非常に把握しにくいことに悩まされ、まえがきの一ページ目をめくって恋愛資本主義なるものが出てきたあたりから毎度頭痛がしてくる。
この「恋愛資本主義社会」なる単語はネットでもたびたび目にするのだけど、この定義がこの文章からは読み取りにくい。
とりあえずP008では以下のように記述されている。

一九八〇年代以降、それまで大時代的で深刻な意味を持っていた「恋愛」はポップカルチャー化され、恋愛やセックスはバブル経済に後押しされつつ大衆に消費されるための商品となった。一部の女子高生は「援助交際」という名の素人売春に励んで小遣いを稼ぐようになり、恋愛はカラオケボックスで歌うデートの延長線上に位置する程度の遊びになった。結婚してからでも「不倫」という名の浮気を堂々と楽しめるようになり、愛のないセックスもおおっぴらに消費されるようになった。このようなバブル期以後の情勢を僕は「恋愛資本主義社会」と呼んでいる。

やっぱり分からない。少なくとも説明にはなってないと思う。
このように事例を列挙するという手段で説明ができる場合もたしかにあるが、それは相当に簡潔な概念でかつ端的な例示をできるときの話であろう。
この記述は事例を列挙しているが、ここからどの部分を共通点として読み取ればいいのかが分からない。「恋愛」「不倫」と「売春」「愛のないセックス」を一緒くたに並べて「恋愛資本主義社会」といわれても、そもそもその言葉の指している「恋愛」とは何ぞやと問わざるを得ない。だいたい「カラオケボックスで歌うデート」は普通に恋愛の一部だと思う。深刻な恋愛のさなかにカラオケボックスに行くことだってあるだろう。
あくまで「まえがき」なのだし追々それについて説明していくならそれでもいいのだけど、このまえがきはそこからすぐに「恋愛資本主義社会の崩壊」やら「恋愛資本主義社会とオタクの対立構造」なるものに話が飛ぶので置いてけぼりにされる。
またその「恋愛資本主義社会の崩壊」についての記述も、「崩壊した家族」「異性を独占する一部の者と、恋愛できない大勢という二極化」「結婚恋愛制度そのものの崩壊」という記述から、「だが、そんな恋愛資本主義社会の崩壊を尻目に〜」といきなり恋愛資本主義の崩壊に話が繋がってしまっていて、恋愛資本主義社会と元々の恋愛結婚制度の関係や違いがうやむやになってしまっている。


結局この「恋愛資本主義」という言葉の正確な定義は最後まで本を読んでもはっきりとしたところが分からなかった。
後の本文の記述を追うと「恋愛における消費活動を自分たちの商売に誘導して利益を得ようとする商業資本の戦略」のようにも読めるが、それだと援助交際の蔓延まで企業の思惑なのかとなるし、企業が恋愛プロセスを消費活動に結びつけることと個人が恋愛そのものを消費の対象物とすることはまったく異なる概念だと思う。*1
おおよそ漠然とは認識できるがどうにも正確な定義ができない。それは吾輩に限らないようで、はてなキーワード恋愛資本主義を引いてみても「さまざまな解釈が可能であるが、主に〜〜〜などという感じに捉えられている。」という記述で締められているというのがせつなさ炸裂。


また本書のタイトルである「萌える男」の定義も分かりにくい。

(P034)
概して恋愛市場で女性にモテるのは「萌えない男」だ。萌える男は、よほど顔が良いとか金があるとかいったアドバンテージがないかぎり、「オタク」とか「キモイ」とか言われて敬遠されることが多いようだ。それに対して、萌えない男は、ルックスや経済力がいまいちでもそれなりに恋愛できる。
ここで僕が言う「萌えない男」とは、「萌える男」の逆のタイプの男を意味する。
萌える男は、「恋愛とは、萌えて忍ぶものなり」という受動的態度で女性に対しても一種フェミニスト的というか気弱な平和主義者だが、萌えない男は「恋愛とはセックスなり、セックスとは恋愛なり」という能動的(?)態度で女性に接する。
(中略)しかし、萌えない男は「セックスしたいので、別に好きでもないがとりあえず口説く」という行動原理で動いている。

(P036)
しかしながら、萌える男は基本的に受動的な性格で、しかも二次元の空想の世界で自足できるのだ。萌える男の特徴は、その旺盛な想像力にある。アニメや漫画のキャラクターは、それ自体にはあまり情報量がなく、人格的なリアリティが薄い場合が多い。だが、萌える男は想像力によってそのキャラクターの生い立ちや人間関係などの物語を想像し、あたかも実際に生きているかのような人格をキャラクターに持たせることができるのだ。

ほんの数ページの間にこのような記述がある。ここでいう「萌える男」「萌えない男」の基準はどちらなのか?
前者と後者は両立する可能性も無くはないが主張としてはほとんど別物である。特に前者に至っては一見「萌えない男」の定義を示そうとしているように見えて、定義しきる前に本田透による評価が下されるというへんてこな文章になっている。
この中では「空想の世界で自足できる」という定義がまだ妥当だと思うのだけど、これを基準にして他の部分に適用しようとしても話が飛躍しすぎる。
空想で満たされる男でなければ「恋愛=セックス」になるのか。「口説く・ナンパ=即セックス!」なのか。
「軟派以外の男=旺盛な想像力を持つ萌える男」が成立するのか。受動的でなければ萌える男ではないのか。
基本的に、論じるための必要条件である定義が定まらないものを正確に理解することは不可能である。


もちろん「萌え」「萌える男」と聞いてその指し示すものの見当がまったくつかないわけではない。ここでいう萌えはおおよそ「実在しないキャラクターを愛好する趣味全般」という意味で使われていると思う。少なくとも、ゲームやアニメを中心とした萌え産業について語っている以上、そのような定義が大前提になっていなければならないはずである。
ゆえにここで吾輩はそう定義したうえで、その大前提となる定義から語れると思われる範囲で、以下に「萌え」や「萌える男」についての見解を語っている。

誰がための本

そしてこの本、そもそも誰に向けて書いているのかよくわからない。
エヴァはまだしも乙女回路だの葉鍵ゲーのキャラ名だとか麻枝准らの移籍がどうとか、素人に読ませるつもりにしては必要以上にオタ臭い固有名詞を並べすぎている。しかし一方でやたらと初歩的なことを述べていたり、オタクを対象としているにしては「鬼畜ゲーム」「鬼畜ルート」を萌えと対立するものとして記述するなど、浅く乱雑すぎて正確性を欠き見るに堪えない。
まあ基本的には非オタに向けて萌えを説明し擁護する本と見てよいのだろうけど、そういうものとして捉えた場合、この本はオタクを擁護しようとしながらその実「語るに落ちて」いる……と一般人に思われてしまいそうな、オタクが誤解されかねない記述が多い。


第一章冒頭で『では、実際の「萌える男」たちは、どのようなライフスタイルを送っているのだろうか?僕は〜』と自分を例に出してオタクを語っている中に次のような記述がある。

ネットで話題になっているコンテンツをある程度チェックしておかないと仲間の話題についていけなくなるので、萌える男を貫くのも結構大変なのだ。この世界、テンポが速いので三十歳を過ぎた僕にはフォローし続けるのがそろそろ厳しくなってきている。
そこで年齢の若い友達からブログや掲示板経由で最新の萌えトレンド情報を拝聴して、勉強させてもらったりもする。
(P.15〜16)

そんなトレンドを追いかけることに忙しい「萌える男」なんて、「恋愛資本主義に毒されて汲々としている人たち」と、あるいはただ対象が変わっただけの「萌え資本主義」と、どれほど違うだろうか。
本来流行を追う必要なんてない。話題についていけないからと流行を追ってニュースサイトを巡るのとホットドッグプレスを買うのとにどれほどの差があるのか。むしろ吾輩はそういうことに拘泥しない人間だからオタクになってるのではないかと思っている。
たとえば吾輩は近年のエロゲにはすっかり疎くなり、属性に合致するはずの姉ゲーすら滅多に買わなくなってしまった。しかしそれは萌えなくなったからではなく、むしろ萌えすぎているからである。三ノ宮由佳里先輩の抱き枕が届いてからというもの、エロゲを起動していても目の前の由佳里先輩があまりにもかわゆすぎるためついつい由佳里先輩にすりすりごろごろまふまふちゅっちゅと耽溺してしまい、しかも実際そうやっている方が幸せなのでもはやあんまりエロゲいらないというかエロゲがやれないという結論に辿り着いてしまった。(去年のひまチャきなど、それでもやっておきたいと思うようなものもあるのでまったくやらないわけではない。)まあそのあたりの個人的な想いは前に書いてるのでここでは割愛。
http://d.hatena.ne.jp/diktator/20051223#p4
http://d.hatena.ne.jp/diktator/20071223#p4
流行を追わないといけないのは本田透という「オタク語りの物書き」だからでしかない*2はずである。本のタイトルにもなっている主題であるはずの「萌える男」についての記述としてこれは軽率すぎる。

(P112)
対象を仮想の二次元のキャラクターに設定することによって、より純度の高い癒しと救いを得ることを可能としているわけだ。ただし、仮想のキャラクターにあたかもあたかも現実に存在するかのようなリアリティを与えるためには、大量のグッズが必要であり、大量の物語――同人誌やファン・フィクション小説など――が必要となるわけだ。原理的に言えば、「0」という存在にどれだけアイテムと物語をプラスしてもやはり「0」であるから、僕のような萌える男は生きる限りアイテムと物語を無限に収集し続けなければならないのだ。

ここをゼロだというのは、現実に存在しないことを「越えられない壁」だと言ってるも同然で、常に補給し続けなければならない人はそれこそ生身の恋人を得ないと生きられないのではなかろうか。
オタコレクション意欲の源泉の話としてこのように書かれているのだけど、P081では「萌えに必要な能力は、キャラクターの内面を構築するための想像力(または妄想力)のみであり、実はフィギュアなどのアイテム類はその想像力を増幅させるための燃料の役割を果たしているというわけである。」とも書いてるのに何故ここで「0」と言ってしまうのだろう。
たとえば「先立った嫁の遺影と想い出を支えに生きていける」という人だっていないことはないだろうし、遠距離でなかなか逢えない人の写真は欲しいと思う。その延長線上にあるものだと吾輩は思っている。家に帰れば由佳里先輩抱き枕にまふまふできるが、外に持って行くことはできないので携帯の画面にも由佳里先輩の画像を入れたりするのだ。

(P114)
かつては誰もが「人間不平等」という真実を知っていたために恋愛を諦められたのだが、現代では建前上、すべての人間が平等であるはずだということになっている。ゆえに、三次元での恋愛にまったく癒されない人間も、恋愛による癒しを求めざるをえない。そこで「脳内恋愛」=「萌え」のニーズが飛躍的に高まったわけである。したがって、「萌え」へのニーズは今後増えることはあっても減ることはないだろう。

これ「萌えは現実の恋愛の代替物」という主張そのものに見える。

(P126)
萌えキャラによって救われようとする信仰である萌えの裏側には密かに現実世界に対するルサンチマンが流れているので(というよりこのルサンチマンこそが萌えの原動力となっているのだ)、いつ何時萌えが裏返って鬼畜ルートに陥るかもしれないという根源的な不安が付きまとう。

つまり萌えオタクは現実世界へのルサンチマンを抱えていて、暴走したら犯罪に走るかもしれない犯罪予備軍であるということか……って駄目じゃん!!大谷昭宏大喜びだよ!!
ともかくこの「ルサンチマンが萌えの原動力」というのは非常に危険な記述だと思う。そもそも何かを愛することにルサンチマンが必要なのか?
このあたりについては他にも気になることがあるのであわせて後述する。


上に挙げたこれらはオタクに対する誤解を招きかねない(あるいは本田透が本当にこの解釈の通りに主張しているとしたらそれは誤りであると思える)記述である。またこれをもって「オタクの本性」が語るに落ちているとは思わないものの、本田透氏のオタク観」が語るに落ちているのではないかという疑問は湧いてしまう。
ぶっちゃけて言ってしまうと、吾輩にはこれ「一般層へ向けてオタクの説明をするような体裁をとりながらオタクに向けて媚を売ってる本」のように感じられてしまう。

ルサンチマンと萌えに関わる言説の外形

本書の第三章「萌えの心理的機能」の章には上でも挙げたようにやたらとルサンチマン、トラウマ、レゾンデートルという単語が出てくるのだけど、吾輩としてはこの章の記述が一番いたたまれなかった。
この本はここで萌えゲー・泣きゲーについて、エヴァが完結した後に登場しており、エヴァの監督がオタクを否定してオタクのレゾンデートルを破壊してしまったところからエヴァに与えられたトラウマを自ら克服して治癒しようという動きが活発化した。それが「萌え」系ゲームの登場だったのである。』としている。この「だったのである」という断定表現の通り以後これが正しいかどうかの検討がされることはなく、それを前提として萌えゲーの効果を語っている。
この時点でまず当の萌えオタクでありつつもエヴァをあまり気にしていなかった(綾波もアスカもあんまり好きじゃない)吾輩は何なのだろうという疑問が湧く。


そしてKanonを引き合いに出す際に「母親キャラとして主人公を受容してくれる水瀬秋子は、母子関係の不具合によるトラウマを癒してくれる。親友キャラの北川潤は、同性に好かれなかった・苛められたというトラウマを癒してくれる。」という記述でもって恋愛関係以外も補完される完成度の高い(癒し)システムだとする箇所にぶち当たって、この本から受けるこじつけ感が強くなってきた。
海原雄山Kanonを「エロが薄い」「男友達のいない主人公」と貶しつつ東鳩を褒めちぎるコラ画像をふと思い出したけど、一般人がKanonなんかやらないからといって北川を過大評価しすぎではなかろうか。ゲーム開始時に初対面の転校生である主人公に対していきなり「親友」もない(ただ人形探しのイベントなどにおいて評価が分かれるだろうとは思う)し、北川どころか吾輩は東鳩の雅史でさえ不足だと思う。出番少ないし。
いやまあママンキャラ好き――ままらぶの涼子さんや東鳩2の春夏さんはまだしも、由佳里先輩のママンとかエンジェリックセレナーデのエオリア(シアリィ)さんとかLost Passageの美裕紀さんで悶え転がれてしまう吾輩にもあまり人のことを言えた義理はないが、それは単に萌えの資質である妄想力に由来するものだと思う。
たとえば北川や雅史で腐った掛け算をしている人だっているだろうけど、そういう人がその気になればそれこそ対象が鉄道でさえ受け攻めが構築できるわけで、完成度とはあまり関係がないしそもそも北川でやる(ここでKanonの効能として語る)必要がない。もっといいものがいくらでも転がってるし、せめて「CROSS†CHANNEL」とか「グリーン・グリーン」くらいは言ってほしい。いやC†Cは特殊だしグリグリはやったことないけどw

(P125)
つまりシンジは人類の未来という集団的な幻想に価値を見出せず、恋愛というパーソナルな対幻想にルサンチマンの昇華を求め、挫折した。それゆえにルサンチマンをまず恋愛対象のアスカという少女に向け、最終的には「恋愛=世界のすべて」という価値体系に基づいて人類を滅亡させてしまう。
(中略)
それはさておき、エヴァのすぐ後を受けて
登場したLeafの伝奇系ゲーム「痕」(一九九六)の主人公は、自分が隠し持っている凶悪な暴力性についてずっと葛藤し続ける。これはエヴァ以前のPCゲームやアニメなどの伝奇・SF系オタク作品にはあまり見られなかった新しい潮流だった。

(P126)
しかし「痕」はエヴァにおける主人公の暴発を受けて、自らの力に恐怖し苦悩する主人公が描かれる。実はエヴァ以前にも自らの力に苦悩する主人公は多く登場しており、たとえば菊池秀行の『吸血鬼ハンター』シリーズや石ノ森正太郎の諸作品にみられる。しかし「痕」ではその「力」が非常にパーソナルなもの――「萌えキャラに対する暴力的な性欲」である点が新しかった。

またさらにこうして「エヴァのトラウマ」から萌えゲーに繋げようとする主張に至り、もうただの牽強付会じゃないかとしか思えなくなった。
うちはテレビ大阪が映らなかったため当時リアルタイムでエヴァが観られず、後でビデオ借りて26話全部観たけど、トウジを潰したのはダミープラグだし、シンジ自身の暴力といえば「僕の気持ちを裏切ったな!父さんと同じに裏切ったんだ!」とカヲル君を殺してしまったくらいで、それを暴力的な性欲とか言ってもただ一部のお姉さんたちが悦ぶだけであろう。
実は吾輩はこの本に書いてある「シンジがアスカの首を絞めた」とか「人類を滅亡させた」とかいう話はよく知らなかったりする。テレビの26話までは観たけど劇場版は一作目のビデオしか観てないから。
一部の最後の二部予告映像で首を絞めてたのは見たけど経緯をよく知らなかった。スパロボαでは量産機と戦った程度だし、一応最後の方までやったサルファでも当然の処置とはいえ首絞めも「最低だ」も削除されている。
そういえばシンジがナニする「最低だ」のシーンは話題になったものだけど、吾輩はビデオ観た当時高校生でありながらそういう自慰行為の存在を都市伝説くらいにしか認識してなかった(当然自分でしたこともない)という変な子だったので感覚があまり一般的ではないという自覚はある。閑話休題
まあ回りくどい言い方をやめて結論から言うと、吾輩には「痕」が「エヴァにおける主人公の暴発を受けて、自らの力に恐怖し苦悩する主人公が描かれ」たものだとは考えられない。それは単に吾輩が知らないというだけの話ではない。

  • 1995年10月04日 エヴァ放映開始
  • 1996年01月26日 「雫」発売
  • 1996年03月27日 エヴァ放映終了
  • 1996年07月26日 「痕」発売
  • 1997年03月15日 エヴァ劇場版第一部公開
  • 1997年05月23日 「To Heart」発売
  • 1997年07月19日 エヴァ劇場版第二部公開
  • 1998年05月01日 「WHITE ALBUM」発売
  • 1998年06月26日 「ONE 〜輝く季節へ〜」発売

発表時系列をwikiソースで並べると上のようになる。ブームの流れとしてならまだしも、第二部の「暴発を受けて」痕が描かれるという因果関係はどうやっても成立しない。テレビでは挫折はしたかもしれないがキャラとの関係における暴力の発露はせいぜいカオル君くらい、ましてその回からでさえ「痕」発売まで半年も経っていない。しかも首絞めのある劇場版第二部の公開は、強大なターニングポイントである「To Heart」の発売後ときている。エヴァ劇場版から東鳩無視して痕に繋げて萌えゲーの流れを語ることには無理があると思う。
エヴァを(95-97年)、痕を(96年)と書いている本田透が時系列の問題に気付かないというのも少々考えにくいことではあるのだが、ブーム・観点の流れにしてもTV版・劇場版エヴァと痕の発売時期の関係から見ると飛躍しているし、はっきり「主人公の暴発を受けて」と記述しているのも事実である。こうなるともうこじつけにしか見えない。

ルサンチマンが萌えの原動力であるという主張に対して

で、ルサンチマンの話なのだけど。
ちょうど上で吾輩がママンキャラ好きという話を出したので、とりあえずそこから述べてみる。
個人的な話をするならなにげに吾輩にも実の親に捨てられたという経験があってそれに伴うトラウマも生産されているわけだが、吾輩の母であってくれた人があまりにも素晴らしすぎるため吾輩は不幸どころかむしろお釣りがくるくらいである。
その母たる人の才色兼備っぷりは単なる吾輩の贔屓目だけではなく、実際かつて一部で私設ファンクラブまで組織されていたというコテコテの逸話を持つほどの人であり、さらにはダダ甘で、抱き枕露見済みな現在も関係は良好すぎる。ぶっちゃけ吾輩は自分が「マザコン」であると言い切れるし、不具合やルサンチマンどころかむしろ逆に「初めて会ったものがこの世で最高のものだった(アイシャ・コーダンテ)」ことが萌えオタクになってしまった一因ではなかろうかとも考えている。
もっとも、深読みすれば邪推の余地(原因となるルサンチマンが存在する余地)はいくらでもあり、それにそもそも全ての衝動は不満足からくるものであるともいえるが、それって世間一般の恋愛……にも限らない人間関係を含めた全ての欲求の話である。そこで殊更に「萌え」の原因をルサンチマンだと主張するのは、「人が恋をするのはモテないからだ」と言っているのに等しい歪さがある。

そして恋愛資本主義とは何かを問う……

P075では「恋愛資本主義のピラミッド構造」として、金を媒介とする二重の搾取構造になっているということを書いている。
それによると、恋愛もセックスもこの恋愛資本主義システムの中では金と等価交換できる商品であり、モテない男から「ミツグ君的な関係や性風俗産業や離婚の慰謝料」で女性に金が流れ、その金が「ヒモ関係やホスト産業」でモテる男へ流れていくのだという。
そしてその結果を「つまり個人の持つ性的魅力が、最強の資本なのである。かくして、一握りの男性が、女性を独占することになるのだ。」と述べている。


先にも述べたけど愛情と関係ない性風俗産業まで含まれるとは汎用性が高すぎるぞ恋愛資本主義幅が広すぎる概念は無いのと同じだ。
というかこれが「世を支配している恋愛資本主義」のピラミッド?ヒエラルキー?「萌えない人=性風俗産業&ホスト・ヒモ」がデフォルトですか?モテない男から金を吸い上げてイイ男に貢ぐ女がスタンダードなのか?
普通に考えれば、金はともかく「性的魅力」のある人が異性を得るのってむしろ当たり前じゃないか。どんな世界ならそうならないというのか。
それに「萌えない男」がモテるという話はどこへいった。萌えるからモテないのかモテないから萌えるのかはっきりしろ!(吾輩はどっちも正しくないと思うが)
恋愛資本主義とは「資本主義」というくらいだから金の問題だと思うのだけど、この「モテる男に金が流れる」という「金を媒介とした二重の搾取構造」の一重めって何?モテない男がモテる男に金以外の何かを「搾取」されているのか?




……と考えてたら、この「萌える男」という本の主張をまともに読み解こうとするのがいい加減バカバカしくなってしまった。
あとがきに「自分より下位に位置する劣等な人間」を作り出して苦しみから逃れようとする人が云々と書いているが、この本田透の「恋愛資本主義社会」なるものについての主張こそ差別とレッテルの塊だと思う。

それで根本的に

この本の主張にはとにかく一貫性がない。
「萌えない男は、ルックスや経済力がいまいちでもそれなりに恋愛できる(P034)」と言ったかと思えば後で「ある種の人間――異性にとって魅力的のない人間――は、絶対に恋愛によって癒されることがない、というのが僕の考えである。(P114)」と言い出すなど場面によって評価がずれている。


何故か「恋愛資本主義社会が悪い」と非難し「モテないから代わりに萌えるのは悪くない」と主張しながら、「萌えの素晴らしさ・特別性」を語ろうとしている。
しかし萌えの素晴らしさを語れば語るほどに、恋愛資本主義を原因として糾弾する主張は力を失っている。さらに恋愛資本主義社会が間違っていたからだと糾弾することで、萌えの素晴らしさの主張は力を失っていく。

(P211)
だからこそ、僕は今こそ「萌える男は正しい」「現実は間違っている」と唱え続けなければいけないのだ。「現実はこのままで構わない。すべて正しい」などと言う人間を信じてはならないのだ。現実がすべて正しいのであれば、萌える男は生まれてこなかったのだから。

現実が正しければ萌える男は生まれてこなかったといい、そこで「間違っている」と断言・非難することは、「現実が間違った方向へ進んで減衰したから価値の低い萌えが台頭した」と主張しているに等しい。


矛盾しているということは、どちらかあるいは両方がおかしいということである。言葉の定義さえろくに整理しない一貫性のない思い付きをまくし立てるばかりだから言ってることの辻褄が合わずぐちゃぐちゃになるのだと思う。言い方きついけどこの本はそのくらい酷い。

純愛とは何か?

萌える男たちは恋愛資本主義システムには純愛・ロマンティックラブはないと悟って二次元の世界にやってきたというが、そもそも純愛とは何なのか?
金を使わないことか?値踏みしないことか?
騙し騙されないことか?誤解しないことか?
性欲を伴わないことか?逆に性的欲求を切り離さないことか?
浮気しないことか?性風俗産業を使わないことか?
対等であることか?傷つかないことか?
一目惚れした相手以外は見向きもしないことか?本気になれるほど相手を知り尽くすまで近付かないことか?(しかし近付かないで知り尽くせるわけもない)
この本のいうところの「純愛」の基準が何なのか定義されていない。


吾輩としては純愛なんて幻想――正確には「純愛」なんて概念が成立するという考えが幻想だと思う。映画観てスキーに行って金を落とすのも、あくまで「行為」の問題であり、どんな行為や勘違いが含まれたとしても、騙されたとしても、愛そのものは純粋に愛でしかない。ただその場所に愛でないものや別の愛も同時に存在するというだけだと思う。それが悪いというなら、金がかからない・裏切られない・疲れない・傷つかないという打算で萌えにはしるのは純愛なのか?
いったいどこを観て滅んだなんて断言しているのかさっぱり分からない。むしろそんな要求と現実否定こそが「萌え以外は自分の欲求を満たしてくれない」という打算そのものではないか。


とりあえず愛の話といえばよく思い出すフレーズがあるので引用しておく。

よく『私は騙されていた』だの『あの人が裏切った』だの言う大人がいるけど、はっきり言ってあんぽんたんね。
そんな言葉でせっかく『好き』だった『感情(こころ)』を汚すなんてばかよ。
裏切られようが捨てられようが『恋愛』は共同責任よ。うまくいくのも失敗するのも二人の責任だわ。
CLAMP「二十面相におねがい!!」一巻より大川詠子さん6歳の台詞)


萌えと純愛

この本は恋愛を宗教の代わりとして、恋愛の中でも崇拝対象を二次元キャラクターに設定することでより純度の高い癒しと救いを得ることを可能としている、神に等しい完璧な女性は現実には無く脳内にしか存在しない、といっているのだが、萌えキャラも完璧ではないと思う。
そもそも単独で100%全てを満たすことなんてできやしない。吾輩の愛しているものは単独で全てを満たそうとするような化け物ではない。由佳里先輩はあまり折檻してくれたりはしないキャラだが、その制約を含めた個性をこそ吾輩は愛している。そして由佳里先輩を愛しく思いつつ、また違う個性を持つ蒼乃姉さんをも愛しているのだ。
そして何もかもを満たす化け物でないのは萌えキャラもそれ以外も同じである。どちらも、そこに視ることができる理想はある。そして肉体がないと知りつつ理想を投影し愛することができるなら、完全ではないと知りつつ生身に視ることができる「神」だって同じようにあるはずだ。それは種類と範囲の違いの問題であって優劣ではない。
だいたいにして人間の不完全を理由に純愛を否定するなら、一方の当事者である萌える男が不完全な時点で諦めなければならなくなる。

細かい話

ここまでのは細かい話じゃなかったのかといえばそうでもないがw
この本では萌えは対等か女性上位で狩猟・支配の関係はないと述べられているが、鬼畜ゲーのなかにも萌えはいろいろあると思う。あと「チェリーボーイにくびったけ」の愛姉とか「ちょこれーとDays」の風花は鬼畜ルートの方がキャラに起伏があって面白かった。それを萌えと呼ばないというなら、この本のいう萌えって何なのだろう。かなり特殊な使い方になってしまう気がする。
そして萌えゲーにしても萌えハーレムゲーはSHUFFLE!をはじめとして山ほどある。基本的に男に都合のいいヒロインばかりである。それはうちの由佳里先輩も例外ではない。それに「積極的に迫るヒロイン」「溺愛しているヒロイン」はむしろ既に縛られていて、しかも多くは結ばれるとは限らないという前提でそのような献身に及んでおり、最初から完全に男性上位で支配されているに等しい。それは今に始まったことではなくラムちゃんやエルちゃんも基本的にはそういう立場である。
そこでふと「未来にキスを」を思い出した。このストーリーは主人公が従妹の飛鳥井霞に「奴隷にして」とせがまれそれを受け入れてしまうところから始まるが、途中で主人公がクラスメイトの式子とも関係を持っていることが露見してもつれた末に霞は「(自分はお兄ちゃんだけの奴隷なのに)お兄ちゃんはボクだけのご主人様じゃないのか」と呟く。萌えにおける「女性上位」のほとんどはこの要求の立場を入れ替えたものでしかないように思う。
せめてその注愛を享受する相手を同じだけ独占しようと監禁してみせるくらいでなければ対等には程遠い。対等志向の存在を全否定はしないが、ステロタイプのマッチョイズムではなくとも、傾向をもとに萌え一般を対等な世界だと言い切ることには無理があると思う。


それと細かい作品論、作品評価の話になるけど、「処女はお姉さまに恋してる」を脱男性性という見地で語るのは吾輩にはかなり違和感がある。
だいぶ前にも書いたけど、このゲーム、ヒロイン5人のうち2人は最初から瑞穂きゅんの正体を知っているし、このゲームは外観に比べてシナリオと瑞穂きゅんの中身はやたら男の子的文法に終始していると思う。貴子さん*3ルートが急転するのも「貴子さんを浚おうとする暴漢を(しかも女だと思って相手が侮ったところで)男らしく撃退」して男だと知られてからだし、さらには紫苑さまシナリオに至っては鏑木家嫡子家督パワー全開で力の問題に力で対抗するというあまりにもストレートに男らしすぎるシナリオで仰天したくらいである。

やりすぎだ

そして吾輩へのトドメになった記述がこれ。

(P131)
(あゝ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのたゞ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。あゝ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓ゑて死なう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだらう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向ふに行ってしまはう。)

このよだかの独白こそが「萌え」の本質なのだと僕は思う。
この世界に生きる限り人間はルサンチマンを再生産し続け、苦悩し続けなければならず、復讐は新たなルサンチマンを生み出すだけにすぎない。ならば、この現実世界から空想の世界に飛翔し、その世界の内部に引きこもってしまえば、もう自分も傷つかなくて済むし、他人を傷つけることもないのではないか。
恋愛資本主義という無限に続く世界から降りる、ドロップアウトする……だが絶望はしない。この世界とは異なる世界にあくまでも希望と癒しを求め続ける。それが「萌え」という精神運動なのだ。
そこには勝者も敗者もない。誰もが等しく平等に救われるのである。

傷つけたくないから、傷つけられたくないから引きこもるのが「萌えの本質」?
じゃあ、萌えは、ドロップアウトしないと生まれないのか。吾輩が由佳里先輩を愛する理由、そのすべては、恋愛で傷つき、傷つけたくないことに本質をおいているというのか。萌えをバカにするのも大概にしろ!!


そもそも萌えとは何か?それは愛だ。執着であり官能だ。萌えが正確に定義できない理由は、愛を正確に定義できないのと同じだろう。
吾輩は、自分の深層心理・無意識まで全てを把握できるような超人ではない。だから、自分の行為の動機にドロップアウト・逃避が含まれるという可能性を100%完全には否定しない。他の萌える男を含めて考えるなら尚更。
だが、幼少期にロム兄さんに燃え、レイナを見てときめくことに負の原因が何か必要か?
同じように、プリミティブに、吾輩が由佳里先輩を愛しく思う、それだけのことに、傷つくだの傷つかないだの、そんな理由が割り込む余地なんかない。

つまるところ

素敵なものを愛するのは、ただ当たり前のことじゃないか!


吾輩が言いたかったことはそれだけに尽きる。愛はただ愛である。愛の外側の何を論じたところで、愛について何をいうこともできない。


社会の偏向や問題点を指摘するのはいい。しかし、萌えを抱き込んで、萌えを貶める自爆テロをやってはいけない。まして萌えに不当なレッテルを貼られるというときに、他人の恋愛の形質に勝手なレッテルを貼ってはならない。


恋愛資本主義」という言葉がおおまかに指し示している方向に何も批判されるべき問題点がないとは思わないが、そちらについては吾輩はさして興味がない。
ただでさえ吾輩は由佳里先輩抱き枕にまふまふしていればほとんど満たされてしまう。またこの本で「恋愛資本主義」のサンプルとして語られているような事例の中にはとても好ましいとは思えないものがたしかに多いが、価値観は人の勝手だし、そもそもそういう価値観で動いてる人は(たぶん互いに)付き合う対象にならないと思う。まさにマザーテレサの言うように愛の反対は無関心であって、一々あまり意識にも上らない。


あるいは、萌えを逃げ場所にしたってそれはそれで構わないと吾輩は思う。
だが、そこで――萌えだけではなく一般の恋人・人間関係を含めて――いとおしい、美しい、可憐なものを愛するというその純粋な想いを侮辱するのはやめてもらいたい。
本田透という人の目的はともかく、そういう機能を持ったそういう言葉を並べているのがこの本である。


また発売から数年経っている本なので調べてみると既に色々と書かれている。それで「ツッコミどころはあるが本田透の真意をこそ重視すべきだ」というような意見もみられるのだけど、そもそもその真意が把握できない本であることが問題なのだ。おかしい各論を追いかけるので力尽きたともいう。前提が既におかしい状況で、総論にこれ以上の力を割く気も失せた。
仮に目的・真意が正しかったとしてもやり方を間違っていては意味が無い。真意を正しく伝えて理解してもらえなければ何のためにこの本を書いたのか分からない。むしろ誤解を招く正しくない表現が山盛りで、これをそのまま受け止められたら萌えの本来認められるはずの評価すら失われかねない。
そんなわけで、いまさらではあっても、重度の萌える男であるところの吾輩としては、やはりこれだけのことは言わずにはおれなかったので以上の通り書いておきたい。


*1:むしろ一人の彼女に入れ込んで消費する(悪く言えば貢ぐ)男と、次々と新作エロゲを買って消費する男とで、前者が後者より恋愛を軽く扱っていると言えるのか?

*2:オタコミュニティへの帰属の問題とかはあるけど萌えだけについて語るならば。

*3:そういえば「ツンデレ大全」の由佳里先輩の隣のページで貴子さんについて書いてたのも本田透だったか。一応言っておくとこの本はともかくツンデレ大全の記事については本田透氏への嫌忌はない。