フォーマットという土俵に立つこと

前のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/diktator/20071115#p2)で言及した記事の続きが出ていた。

最近のオタクは〜という話

http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20071115/1195113996

簡単に記せば,「昔のオタクと今のオタクは(悪い意味で)違う」よね→「流行の絵柄から見れば,没個性化が進んだ」よね,ということを書いたに過ぎない.
今後もこの「昔のオタクと今のオタクは(悪い意味で)違う」という考え方に説得力・納得力を持たせるためのお話を書いてゆくつもりである.

とりあえず変遷について述べたいなら時代による違いを比較できるデータを使わなければ説得力は無いと思う。
そこで「今の漫画と昔の漫画」ではなく、元から性質が異なる「漫画とエロゲ」を比べて何がしたいのか?
しかもこのラムちゃんの企画は、奇しくも本人が先の記事のときに書いているように現役バリバリの漫画家が最近描いたものだからいうなれば完全に「今」のものであり、もはや今と昔ですらない。

* 色んなジャンル色んな世代の作家に描かせたらばらばらになるのは当たり前だってw
エロゲ原画絵師ってそんなに世代一緒なのかしら?もう10年以上やってるジャンルじゃなかったっけ?それで世代が現れないってのはすごい.20代,30代,40代と幅広い世代に絵師いない…のかなぁ?
先のエントリで引いた絵は,確かに世代は違うかもしれないけど,現役バリバリの漫画家に書かせたものだし(バリバリだ!!)

正直なところ今の吾輩の感覚でいえばあれらが「オタク」のものであるかは結構疑問なのだが、現在「オタク」と認知されないものならどちらにしても今「オタク」とされるものと比較するとき用いるのはアンフェアである。


そもそも「エロゲ(萌え)オタク」は、「アニメオタク」や「漫画オタク」とは別の概念である。兼任している人は多いけど。
普通に考えると今のエロゲオタについて論じるなら昔のエロゲオタを持ってくるべきではなかろうか。もちろん昔のエロゲオタとは何ぞやという話になるが、そう考えるとカミングハートや東鳩どころか同級生の竹井正樹でさえ現役だったりする。さらに光栄やENIXの黒歴史とか177あたりまで踏み込むと、そもそもプレイしていたとしても今と同じような意味での「エロゲオタ」と呼べるのかどうかが怪しくなってくる。あとアクションゲームパートで女の子を捕まえると実写のシーンが展開するようなゲームもあった気がする。昔、と呼んで比較できるような時代には対応する概念は無いと思う。
そもそも「エロゲオタク」とはその人物のオタクとしての全てではなく、性質のうち一部を便宜的に示しただけの言葉にすぎない。


要するに「消費社会で売れるものを作ろうと思ったら,均一化されるのは仕方がないじゃないか」という話だと理解した.(商業主義と作家性の対立として理解されているのか…)

市場がある一定のフォーマットで作られた商品を要求していて,原画家はそれにある程度従わなければならず,そのフォーマットの範囲内で鎬を削っているのだという意見である.


これも要するに市場が一定のフォーマットで作られた商品を要求しているのだから…という意見である.

この見解には概ね同意する.こういった構造的な問題があるから均一化・没個性化しているのだろう.

そして,ココが問題なのだと思う.何故なら,今のオタクたちが,もっと個性や才能なんか”も”要求する集団であったならば,こういった事態にはならなかっただろうと思うからだ.

「個性」はともかく「才能」*1という言葉をどういう意味で使ってるんだろう、というのはさておき。
まず基本的な問題として市場構造の問題は消費者の問題とイコールではない。「だろうと思うからだ」ではなく、そう考えられるプロセスを示さないと話にならない。
ある商品が吾輩の好みに完全に合致し、吾輩に対しては考えられる限り最高のパフォーマンスを持っていたとしても、そのせいで他のすべての人に好まれなくなったら吾輩からどんなに好評を博しても一人分の売上げしか作れないので商品としては成立しない。
つまり単純に商品としてだけ考えるならば少数の人間を激しく狂喜させる物よりも、ギリギリでいいからより多くの人間の購入ボーダーラインを超える物を作る方が望ましい。これ自体は消費者がどうこうではなくまさに「構造上の」問題である。
そしてたとえどれだけ「個性が当たれば大きい」状況でもメーカーや流通がリスクを背負うことはどうやっても拭いようがない。これを拭える条件は「消費者が絶対何でも無条件に買ってくれる」くらいのものであり、これがありえないものである以上、少なくとも「構造上の問題」が今のオタクたちのせいだという主張は誤りである。
リスクが大きいというのは要するにその絵が多くの人に訴求する魅力を持っているかどうかの判断がつかないということであり、リスクが大きいと判断されたということは、その絵の個性が判断を下す人(多くの場合は複数人に渡るのだろう)にリスクを負うに足ると思わせるほどは魅力的に映らなかったということである。

確かに私も多少絵を描く人間だし,彼らの描く絵にそれぞれ(微妙な)違いがあることは見て取れるし,絵師の判定も結構できると思っている.しかし,その微妙な差を個性とか作家性といったものとして認識できるか?と言われれば,できない.

認識できない人がいたとしても、存在しないことにはならない。
そして「作家性」という言葉はどういう意味で使っているのかよく分からないが、吾輩は少なくとも個性だとは認識しているしそれを愛してもいる。だからエロゲオタクをやっているのである。

みやま零氏の表現を使うならば,同じエンジン,決められた排気量,定められたプロペラの中で鎬を削っているゲンガーと,宇宙旅行を実現させているスペースシャトルと,地上最速を目指しているF1と,なんであんなものが海に浮かべるのか不思議な豪華客船と…の違いで個性を争っている作家とでは明らかに違うだろう.
そして,前者を主に消費している今のオタクと,後者を主に消費していた昔のオタクとでは,違いがあるだろう…という話である.

それぞれにただ「違いがある」と言うのはいい。それらを主に消費しているオタクにも違いがあるだろう。同じわけがない。


しかしその「違い」に、この流れで言及して、『「昔のオタクと今のオタクは(悪い意味で)違う」という考え方に説得力・納得力を持たせるためのお話』として語るのは了見が狭いにも程がある。
「同じエンジンを使ったボートレースは単純劣化で個性のない無価値なものであり、ボートレースを愉しんでいる人よりもF1を観賞している人の方が優れている。」という主張をしていることに自分で疑問を感じないのか?


そしてこういったフォーマットについてマイナス解釈しかできないのは短絡的すぎる。漫画絵全体に対して何らかの制限や偏りがあることを理由に萌え絵を貶すのは、絵画全体に対して縛りや偏りのある漫画絵の価値を貶める行為に等しい。
フォーマットをいうなら落語も歌舞伎もミュージカルも宝塚もボクシングも野球もゴルフも相撲も漫画も全部フォーマットで縛られている。
壮大に盛り上がるものが観たいときにお爺さんの小噺が長々と続いてもしょうがないからミュージカルがあり、落ち着いた雰囲気でまったり愉しみたいときにステージで途中から大音響の歌と踊りが入ったら困るから落語というジャンルがある。入れたいものを「個性でござい」と好き放題に突っ込んで見る人のことを何も考えなかったら、それは「作品」としてさえ成立し難い。そして便宜であるとともに、ここには伝統や様式美も詰まっている。


「国土防衛を実現させている実戦で有効な戦略や軍事兵器や動員」まで何でもありの戦いをされたら最終的にただの政治・財力勝負になる*2から一対一の格闘技というフォーマットがあって、そこでも剣やサブミッションで勝負が決められると観られないものがあるからボクシングがある。
刀の使用が可能になれば剣技における個性は広がるが、代わりにパンチを打つ機会が激減し拳の技術という個性は大幅に失われるのである。
先のエントリでも壷に喩えて述べたが、自分の感性で認識することはできなかったとしても、萌え絵のフォーマットにしか乗せられないあるいは乗せるのが難しい個性があり、萌え絵というフォーマットをより生かし無二の輝きを与えられる個性が存在する可能性を何故想像することができないのか?


それにそもそも漫画にしろアニメにせよ商業主義や伝達・共感のための縛りを受けていない作品など皆無に等しい。ロボアニメのクリエイターがロボ描写という枠を放棄したら仕事にも商品にもならない。そしてフォーマットはただ雁字搦めにするだけのものではなく、そのフォーマットだからこそ出せるロボットアニメとしての独自の個性と魅力を生み出すのものでもある。
まあ富野の御大はこの縛りに関する愚痴として「本当はガンダムなんて動かしたくない」「ガンダムは駄作」「ガンダムなんて観るのは馬鹿」みたいな言葉をカッ飛ばしてるけどあれを額面通りに受け取る人もおるまい。
(「御大の言う通りでガンダムなんか観てた当時のオタクはレベルが低く、個性や才能をまともに評価できていなかった!」とか主張する人がいるなら別だが。)
そういったフォーマットを均一だ没個性だと短絡的に否定することは、ここで「何の縛りも持たず戦争や科学考証の正確さを追求してロボットを出さないアニメを作った方が全てにおいて良かった。“ロボットアニメのガンダム”でなければ生み出されなかったような魅力や個性は何も無かった。」と言っているに等しいのである。




萌え絵だからこそ映える個性、萌え絵を輝かせる個性がある。たとえばみやま先生が業界からいなくなったら「みやま零の個性が吹き込まれた萌え絵」が見られなくなって困る。ASのエオリアママンはなるちーのタッチが純朴さを引き立たせるしロスパの美裕紀ママンは蓮見江蘭の絵が落ち着きを感じさせる……とか考えながら吾輩秘蔵のママン画像フォルダを漁っていると、タッチだけでなく表情の作り方にも絵師ごとの違いを感じた。ママンキャラの醍醐味のひとつは「困り顔」だと吾輩は思うのだけど、おなじ困ったり拗ねたりした顔でも眉や目の動かし方とか口のゆがめ方にそれぞれの個性が出ている。そういった個性を感じる萌え絵が好きだし、「魅力的な個性」を吾輩が感じられないものは萌え絵らしき体裁をしてても興味が湧かない。しかし吾輩が感じられないだけなので、吾輩が興味を持たない部分に価値を見出し愛好する人々のことをとやかく言う気もない。


それでそもそも吾輩含むエロゲオタク同士でも普通に「響子さんが良い」とか「ひかるちゃんが好き」「いや吾輩は鮎川派だ」というようなやり取りだって普通にある。現在のエロゲオタクという性質を有する個人個人は、吾輩の知る限りほとんど皆がエロゲとラノベ以外のものも色々評価して愛好している。
言及対象を「エロゲオタクである人間の中のエロゲオタク部分」に限ったとしても、「エロゲというジャンルの特性」ゆえ必然的に生じる偏りについての検証なしに妄想を重ねただけで現在のオタクを貶める主張をすることは無価値で愚昧な罵詈雑言でしかない。これはもはや迷惑行為である。
あれだけの人間がひしめく中で研鑽している絵師の仕事に対して、同じ土俵に立って戦うこともしない人間がまともな検討も加えずに馬鹿にするような発言を繰り返すのはやめるべきだ。


前のエントリの繰り返しになるが、結局この筆者が考える「エロゲ業界の健全な状態」とは具体的にどのようなものなのかが全く分からない。誰かの絵の個性が「不当に評価されない」なんてことがあったかといえば、それが主観評価の範囲内である限り他人が不当だと決めつけることなんて不可能だからそんな主張はありえないのだし。
ただ単に差が大きいほど素晴らしいってものではなく、画太郎先生のババアをエロゲで攻略したいと思うような人は希少なのである。画太郎先生のババアでもエロゲに受け入れろ(そしてこぞって買え)というのでなければ、この「標準価格8800円の」エロゲ業界において妥当といえる幅をどのように判断し主張しているのかをはっきりしてもらいたい。
「別々のエロゲンガーが同じキャラを描くような企画」の存在も認知していなかったような人がどういう見解を持っているのかは知らないが、エロゲオタクをそれなりに長いことやっていて現在は少し離れて観ている吾輩としては、今の絵のラインナップはエロゲの性質と必然を考えると理想的とは言わないまでもそれほど不自然とは思えない。
そして横田守からNOCCHIさあぺんとTheガッツの絵や宇宙帝王などに至るまで見比べたら吾輩にはまだ少年ジャンプ一冊に載ってる漫画の方が均一のように思えるのであるが、ここに個性や作家性を一片たりとも認めないような言葉を示しているあたりやっぱり釣り記事ではなかろうかという疑惑が拭えない。そもそも「違いがあることは見て取れるし,絵師の判定も結構できる」のに個性が無いというのは言葉の使い方が根本的に違うとしか思えないし。まあ吾輩の考えを文章にする機会になったからいいけど。
……そういえば週刊少年ジャンプで連載持ってたことのあるエロゲンガーもいたっけなぁ。
あと例によって絵師の名前とかはおおむね敬称略。


※一応追記しておくと吾輩は諸手を挙げて現状を肯定しているわけではなく色々思うところがあるのだけど、件の記事はぶっちゃけそれ以前の問題で知識も思慮も足りていないからとても賛同はできないというだけのことである。
むしろそこに「最近のオタクはここまで浅薄な暴言を振り回すほどレベルが落ちたのか……」とか言いたい気分ではあるがそれもまた軽薄すぎる態度であろう。まあ浅薄な考えや感想も必要なことがあるしそれはそれで意味がないわけではなく、吾輩自身もそれなりに書いてるのだけど、そこに必要な自覚と態度が欠落しているから件の記事はろくでもない代物になっているのだと思う。


*1:個性を出さずに処理する能力だって才能ではある。

*2:もちろんそれが面白いという人もいるだろう。