違うものと同じもの

吾輩は実在の人間と萌えキャラをやたらに「違うものだ違うものだ」と主張しようとする言説には馴染めない。
そもそもこれを「違うものだ」と主張したがること自体に疑問がある。いや違う点が存在することは別に否定しないけど、違いをことさらに強調する必要性がどれほどあるのだろうか。


まあたとえば児童ポルノに関する創作物規制に反対する立場から、被害者となる児童が発生していないという一点を実写との違いとして主張するのは正しい。ただ、それは単純かつ客観的にそれだけで完結している。
これは実写児童ポルノが必然的に児童への人権侵害を含むという一点を理由に不当(「違法」だと悪法にも左右されるのでこう書いておく)なものだとされるのに対して、その不当とされる要素を含まない創作物には何も無いということで、単純に性質のただ一点が問題となるだけ。それ以外は「扱いとしては」基本的に同じはずだ。
そこでこれとは別に(児ポ禁法などの規制関連の話に限らず)アニメ絵のキャラクターは実際の人間とは似ても似つかない「別物だから」リアルには興味が無い、越えられない壁だ、と言う人がいるけれど、そこが越えられないのは強固な次元断層があるからではなく趣味と程度の問題でしかないと思う。


昔購読していたNTの連載「ゆうきまさみはてしない物語」で、人が犯罪を起こすほどの衝動を与える作品を作れたならそれは誇るべきことではないか、というようなことが書かれていた記憶がある。
別に規制の妥当性如何を語りたいわけではないのでその是非はさておき、どんな手段であれ、どんなデフォルメをしていたって、「人」を描いているからには必ずその先は「人」のどこかには繋がっている。それを完全に「リアルとは違うのだよ、リアルとは!」と言ってしまうのは、ある意味では「人」を描いている作者にとって最大の屈辱ともなりうる。
まあ言われる方が悪い(それはその人が現に下した評価の結果なら他人にそれを否定する筋合いはない)ともいえるけど、「評価を言葉にするプロセスに誤りがあるんじゃないか」とは思うのだ。


吾輩は萌えキャラに対する「二次元」という呼び方が嫌いだと常々言ってるけど、アニメやゲームも三次元の空間と存在を二次元媒体で表現しているに過ぎず、ビデオカメラを通しているのと変わりはしない。うちの嫁「由佳里先輩」がコンタクトを落とすのは、高さのある三次元の空間だからだ。
大切なのは、違いよりも先にまず同一性をきちんと確認することではなかろうか。


http://d.hatena.ne.jp/diktator/20080722#p1
吾輩が本田透の「萌える男」を読んでいて不快だったのは、三次元に純愛は無くなったが二次元とオタクは「三次元と違って」純愛だ、と違いによって萌えを持ち上げている(=逆に萌えキャラでないものを否定している)ような内容になっていたからだと思う。「萌える男」の文中には、いずれか一方のみが正しいとかいうものではないと申し訳程度に書かれているが、この違いについてオタク側を誉めそやし現実を非難する以上その部分には明確に「優劣」の主張が発生しているので言い訳にならない。
「萌えないお前らとは違うんだ」と違いを強調して「さあこちらに優れている点がある(=リアルは劣る)と認めろ」というのはオタクである吾輩からしても正当性が感じられず不快だし、それが「違い」である限りその部分は勝ち負けでも付かないかぎり平行線であり対立するしかない。
これも萌えの正当性を訴えて理解を求めるなら、「外形は違うように見えるが、突き詰めれば同じところにたどり着く。それはどちらも等しく愛であり本質的には違いが少ない。」ということをこそ主張すべきだと思う。


吾輩は基本的に実在の人間もキャラクターも等しく情報の集積だと捉えている。(もちろん他の性質上、その取扱いはいくらか違うけど。)今手元の雑誌を捲って目に入るグラビアが実在の人物を写真にとったものでも、写真のように精巧に描かれた創作物であったとしても、その違いは吾輩にとってほとんど意味が無い。それはそこで認知できる情報が同じだから。(ついでにそれ以上の情報を得る気が無いから。)
結局、得られる情報に個別の違いがあるだけでしかない。
肉体がないものの触覚情報は少ないけど「触らなければ愛じゃない」なんてことを言う人は少ないだろうし、「由佳里先輩抱き枕」にすりすりするのが非常に気持ちよいというのはとりあえずひとつの厳然たる事実である。(さしあたって、だからどうだとは言わない。)


吾輩は違いがあること自体を否定したいわけではない。たとえばアニメのロリキャラが好きな人は幼い女の子を特に好むかといえば、必ずしもそうは言えないだろうと思う。
実際にそこで「別物だ」「リアルでは興味が無い」と思う人は当然いるだろう。アニメ絵は独特で、目が大きい。*1それらはたしかに小さくない要因ではあるし、偏る原因ではある。だが前述の通りそれは手法の一つ、一要素に過ぎない。
そこが興味を分けるのはいわば「たまたま」でしかないと思う。影響自体はあって完全に無関係ではないから結果が偏ってはいるだろうけどそれは個人差といえる。まあ言ってみれば大概のものは個人差だ。
最近だと「こどものじかん」のアニメは数回だけ観た記憶がある*2けど、個人的に言えば、ああいうキャラが実際の小学生と全然違うと感じる要因はビジュアルよりも精神面の方が大きい。「20面相におねがい!!」の詠心さん(付属幼稚園月組 6歳 独身)なんかはもっと極端な例か。あれほどの理性を備えた子供は見たことがないし実際いないと思う。
つまり吾輩の観点では「三次元とは違う」というより「中身の年齢が違う」ということの方が強い。逆にどんなビジュアルだろうと、中身(内面)を小学生や幼稚園児レベルにされたら吾輩は引くしかなくなる。
ビジュアルは唯一絶対の理由ではないし、ビジュアルが理由にならないのも絶対ではない。そのあたりは結局個別の評価、ひいては個人差としか言えないと思う。必ずしも滅ぼしあうことにはならないまでも、個人差でしかないものには個別の解決しかない。
違いを言うべき場面・違いを言うべき点が無いとは思わないが、そのカテゴリ分けに個別の差を超えるほどの違いがどれほどあるのかといえば、それは決して多くはないと吾輩は思うのだ。


あー。あまり長文にする気はなかったのに、思ったことをつらつらと書いてたら結果的に長くてとりとめのない文章になってしまった。


*1:特に等身大抱き枕になると強く感じられる。

*2:なにしろシャナ二期と被ってたので。